スーパー、コンビニ、スーパー、100均、薬局、100均。行く先々で買い物に困ることのない道中だ。隙あらば、さまざまな種類の小売店が入り込む。そして、これらはどこでも見られる店だ。1駅先だって、別の地域だってある。だけど、この店がある前はどこにもない別の店だったのも知っている。
ネットで消えたもの、残るもの
物を買う場所はいるが、それは物が必要なだけであって、場所が必要なわけではない。これこそネットで駆逐されるかと思いきや、そうではなかった。しかし、ネットでは得られない娯楽や遊びの場は消えていっている。本屋もゲームセンターもなくなり、電子書籍や通販、アプリで代用が可能だから消えたのか。生きるのにいらないから消えたのか。
必要な物と精神が必要としているものは一致していない。むしろ、かけ離れている場合が多い。ゲーセンと本屋が消えて上記の店ばかりになり、残っている店もまた過当競争にさらされている。喜ぶのは労働者や老人ばかりだ。
“人間”が欲しいものとは
すっかり用がなければ、ただ通り過ぎるだけの街になってしまった。遊びがあれば、その場で行きたくなる場所もあったが、そうではない。江古田は学生が多く、大人がいても金を落とさないと話されることが少なくないが、ますますその傾向が加速している。目先の要不要だけで選択を続けていくと、いるけどいらないものばかりになっていく。利益ばかりが重要視され、心が欲しいものを得られる場所が消えていってる。
人をそうさせたのは
人が人を使い捨てる社会ではあると感じているが、このような地域の動きがそういう人を育て、そういう社会になっていってるのかもしれない。新しく文化的な場所を作ろうと思っても、大資本のチェーン、医療などに誰が勝てるのだろうか。そこを押しのけて場所を作って継続させるのは大変難しい。人生の全てをかけてもできることではない。できることと言えば、こうして昔あったものを伝えていくことしかない。
昔あった色々