摘まれた可能性
若いと何でもできていいなぁ。老人たちがそう言わなくなってどのくらい経っただろうか。現にめちゃくちゃをする若者も野心を抱く若者も身近では見ない。毎週末、江古田では大学生が飲みまわって騒いでいたのに、今では20年前に大学生だった人たちが大人しく店で飲んでいるだけだ。
翌朝の地面もきれいなものだ。もう誰も飲んではいないのでは。子育てママと子どもだけの街なのではないかと見まごうほどだ。
これだけの大学。しかも、芸術系と音楽系、普通大学と個性的な顔ぶれだ。にもかかわらず、特に音楽も芸術も学術も感じるような催しは見た記憶はない。江古田丸ごと巻き込んで大学で何かをやるような動きも見ることはできなかった。最近になって、やっとできるようになり、コロナの影響もないのでこれからという感じだ。
可能性が潰された先にあるものは
こんなに慎重にやらなきゃ何もできない時代で実に若い人が経験を積めなくてかわいそうだ。 楽と言えば楽かもしれないけど、学生のうちにできることをたくさんやれた方が社会での可能性が広がる。確かに暴走は止めなくてはならないが、根から動きを封じて、動けなくさせてしまっては大学に行っている意味がなくなってしまう。
授業でノートを取るだけの毎日で日々が過ぎ、4年には就活して社会に出て終わる。大学という施設の良さも立地の良さも生かせずに大学が終わる。これだったら働いてる方がマシになってしまう。
自由を奪うものの正体
別に法律で禁止をしているわけでもないのだから自由にやればいい。やらないのはやる気がないからと思う大人もいるのかもしれない。だが、いざ何かをして事故になったら総叩きするのもまたその大人たちだ。
そうでなくても何かをしようという若者に対して手を差し伸べない。どこに使われるのかわからない税金がある。しかし、未来のために挑戦しようという若者には何一つ援助がない。あるけど、使わないだけという詭弁も聞こえてきそうだ。
この国は何もさせないようにそっと圧力をかけ、言わないと手助けはしない。手段は積極的に公開しない。そして、やらかした時には脱獄犯に浴びせる電流のごとく罰を与える。若者をすっかりおとなしいネズミに変えてしまっている。
理想的には何をしても自由で問題が起きた時だけ、対応すればいい。
自由と可能性をこれから広げるには
その問題と対処は次世代に引き継がせずにその場限りにする。そして、次世代にはまたフレッシュな気持ちで活動してもらう。その繰り返しでいいと思われるが、大人はそれを許さない。一度したミスを繰り返さないのが仕事と思っている。子供の面倒をなるべく見ないのが仕事と思っている大人が多いということだ。
このことに反抗する若者すらいない。根底からマインドコントロールすることに成功したのだ。一体、どんだけ可能性を潰して楽をしたいのだろうか。衰退でしかないのに。エネルギーのなくなった国なんて不幸が繰り返されるだけだ。
基本的に人間は失敗から学ぶ。教科書よりも先人の話よりも。その失敗からなくして、謎に説教ばかりでプレッシャーで気が滅入るばかりだ。かくして、無気力な若者、可能性の薄い社会が出来上がる。
飲み会で暴れる大学生のいない街なんてただの無能だ。