資本という偏った視点

 江古田には市場があった。商店街とは別に総菜や漬物を売っていた。八百屋があって、衣料品を売る店があって、たい焼き屋もあった。八百屋は執筆時点ではまだある。なくなって、住宅が建った。新しく、居酒屋や中国物産店がができた。それにしても新陳代謝というよりは縮小だった。昔から住んでいるとそう思う。ただ人口に変化はないような気もする。人口に対して店が過多であったのも否めない。練馬区の統計を見ても18年前も少なくはなく、さらに2,000人ほど増えている。

経済が与えるもの

 資本は必要でないものに対し、経済を循環させない。経済を失った利益活動は停滞し、腐れ落ちていく。しかし、個人的には昔の方が楽しそうな街に見える。確かにキレイになった。だが、同時につまらなくはなった。住むだけに関しては機能的でいいかもしれないけど、遊んだり、楽しみを探したりするにしては足りないものが多い。生活用品と家だけでは何もしようがない。資本はあくまでも人間に必要な物の一部にしか特化していない。

資本は人間の欲しているものを残してくれるけど、切り捨ててくこともある。なくなっていったものが求められていなかったものかというとそうでもない。ただその時代に置いてお金にならなかったというだけなのだ。本質的な価値ではなく、資本という一つの視点だけでジャッジされて消え失せてしまった。資本に変わる別の視点が支えてくれればいいのだけれど、厳しいの現状だ。

文化の価値

 文化は資本家の余興以上にはなれないものだろうか。文化は足かせでしかなく、まだパンのみのために生きていた方が楽であるのかもしれない。まだ自分がこういう店をやれている以上、完全にそうはなっていないかもしれないが、転換期に立っている感覚はある。ここで諦めてしまうと自分の求めている文化が消えてしまう。何とかやっていきたい。